遣唐使と遣隋使

平安期に遣唐使の派遣が中止されるまで中国との交流は続いた。

福岡より外洋に漕ぎ出すのであるが、司馬遼太郎によると、偏西風の存在を知らず6月頃に漕ぎ出すため困難を極めたという。当時の航海の知識はその程度のものであった。

比叡山の叡という字を書いて叡智という言葉があるが、その人がもともと持っている知恵のことを指し、教育というのはそれを引き出すことしかできないという考えがあった。

さて、隋から唐へは禅譲により政権が交代した。隋は時代を経るに従って国力は増大したが、汚職がはびこり、ついには唐へ政権を譲る形をとった。実際、煬帝の時代には大規模な土木建築が行われ、飢饉が起きたりしてついには易姓革命に至った。以前であれば悪い政治を行ったため、人心が離れて革命が起きたと言われていたであろうが、今日では経済学的閉塞感の打破のために公共事業を行ったとも解釈されている。唐に政権を譲った後別の国により滅ぼされたようである。その後唐は、初代皇帝太宗により、貞観の治という、中国の歴史の中で最高の徳政を敷いたとされている。