織田信長

堺屋太一「日本を作った12人」によると、信長は革命者である。

戦国時代を通して人口は増え続けており、都市が出来た。信長は、農業に従事しない都市生活者を金で雇い、戦争をするということを考えついた。そしてそのための資金を楽市楽座から得ていた。

 

足軽が台頭し、武芸が得意というわけではないので豊富な資金で鉄砲を量産した。火縄銃の射程は100mほどで、ちょっと離れれば寸胴で防ぐことができた。当時も騎馬が最強であったが、量産には向かなかった。

当時の戦闘にはルールがあり、農繁期には休戦するというようなことがあったが、信長には必要なかった。また、完全能力主義で信長の指揮の下、家臣一丸となって戦った。 これらの方式を弟との家督争いの中で採用したと堺屋は分析する。

信長は中国の政治に精通し、安土城天守閣には中国の故事にちなんだ聖人の絵が描かれていたという。そして、天下布武を掲げる。武とは正しい鉾と書く。武によって秩序をつくり、天下を統一するという意味です。