黒羽藩の維新

今の大田原のあたりの話。15代藩主大関増裕は横須賀藩主の息子で、婿養子として黒羽藩の藩主となる。若年寄となり、幕府の軍監(海軍、陸軍の総監)に任命される。部下には勝海舟がいた。3年ほどで病のため、国元に帰る。

領内で産出する、火薬の原料となる硫黄が高騰し、それを資金源に軍備を整える。

戊辰戦争時、幕府側につくか、新政府側につくか藩内でもめる。「那須の氷雪」によると、増裕は軍監をつとめたので、幕府を裏切れない。かといって、日本のためには新政府側につく必要がある。勝海舟の説得もあり、結果猟銃自殺する。

黒羽藩は1万8000石の小藩ながら最新式の軍備を揃え、兵力も1000人ほどあった。

白河藩との戦いでは大砲を撃ち込み、わずか700人の兵力で2500人の守る城を落とす。

しかも半日で。ちなみに会津藩は40万石の大藩で、御三家である水戸藩より石高が多かった。

大沼渉は家老の家柄で、戊辰戦争西南の役で武功を上げ、初代の仙台鎮台長となる。

周りは幕府側で、完全にアウェイであったろうと思われる。病気で失明し、初代近衛歩兵長となったが、2年後病死した。