大政奉還
で、江戸の終わりの話。11代将軍家斉は一橋家の出身で、江戸の円熟期、化政文化の時代、政治に関心をもたず、大奥に籠りっきりであった。政治もドロドロしており、田沼意次の後ろ立てて将軍になったものの、すぐに田沼を切り捨て、松平定信を重用したが、定信とも合わなくなると、水野忠成、水野忠邦に政治を任せた。50年も在位し、当然子も多かった。
孫の13代将軍家定は島津斉彬の娘篤姫を嫁に迎えた。14代家茂は天皇の息女、和宮と結婚し、世にいう「公武合体」を試みた。この時点で将軍家はかなり尊王攘夷に傾いていたと考えられる。
そんな中、桜田門外の変が起こる。開国してしまった責任者の井伊直弼を水戸藩士が殺害。水戸藩は水戸光圀が編纂を開始した「大日本史」があり、水戸学派と呼ばれる尊王派が多かった。
15代徳川慶喜は水戸徳川家の生まれで、一橋家の養子となり、将軍となる。慶喜はたいへん聡明で、柔軟な考え方のできる人物であった。
十分な根回しの上、大政奉還が成ったと推察される。
結果として、尊王+開国のコラボが実現する。
江戸幕府
貞観政要:中国の歴史上、一番理想的な政治が行われた貞観時代の記録。隋の煬帝から唐に禅譲され、二代皇帝太宗が行った政治は理想的な徳政であった。
家康の徳川幕府は、日本における貞観の治であり、以後280年続く天下泰平の世が始まる。
幕府なので、天帝から天下を任されているのは天皇であり、天皇から征夷大将軍として軍事政権を任されているという形態である。特徴的なのは幕藩制で、地方は大きな藩の外様大名の自治であり、江戸は旗本。江戸の近くは小さな藩の譜代大名。要衝は親藩や、井伊、本多など有力譜代大名。親藩は徳川家の親戚で、御三家や、越前、会津、越智藩など。譜代は古くからの家臣で、徳川五本槍の子孫など。
将軍家の女子は有力大名に嫁ぎ、血縁関係を築いていった。
将軍家も皇室と同じように、男系の男子でないと将軍にはなれなかった。
これは、女子の正統性を認めると、嫁いだ先の有力大名の子が将軍を名乗るのを防ぐためであると考えられる。
中央の政治がしっかりしていないなら、攻め登ることができるシステムである。
また、参勤交代により、大名の子息は江戸で幼少期を過ごす。
戦国の終わり
マキャベリストの最後とは似たようなもので、ついて行けなくなった家臣に討ち取られる。カエサルによく似ていると思う。現在では、家康を討ち取ろうとしたところ、本能寺の変で殺害されたといわれている。
戦国時代を通して食料は増産され、人口は増え続けた。
続く豊臣秀吉が死ぬ。秀吉は遺言で、5大老で最も信頼の篤かった家康に、淀殿を家康の側室とし、秀頼を頼むと言っていたが、淀殿はこれを拒否。関ヶ原の戦いとなる。石田三成に担がれた毛利輝元と家康の、天下分けめの戦いと言われているが、どっちにつくかグダグダの戦いであった。石田三成や安国寺 恵瓊は処刑されたが、毛利ら西軍の将は領地替えなど刑は軽かった。
下剋上:克己心という言葉がある。剋するとは、厳しくするという意味で、普段は上が下を剋して、税を取り立てたり、戦にかりだしたりしている。下剋上とは、上がしっかりしていないなら、下が上を剋しますよという意味である。
四書五経
中世から戦前に至るまで影響を与え続けていた中国の思想について語る必要がある。
科挙の主要科目は四書五経であり、四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をいう。
「経」とは織物の縦の糸のことをいう(ちなみに横の糸のことを「緯」という)。
四書は現代でも読み継がれており、五経は宮廷での実用書の意味合いが強いので、「易経」について記したい。
易とは蜥蜴を表す象形文字で、色がすぐに変わることから、変わる、易しいなどの意味がある。起源は黄河文明まで遡り、亀の甲羅や、牛の骨に焼けた鉄を刺し、その割れ方(爻)で占いをしていた。占いをもって政をしていた。都合の悪い時や、外れた時は生贄をして、日を改めて占った。占いの結果と実際のできごとを周王がまとめ、今日の原型となった。
その過程で抽象的思考が醸成されたと考えられる。全てのものに陰と陽があり、同じように見えることでも、上っていく過程なのか、下っていく過程なのかで意味が逆となる。短期的にはこうであったが、長期的にみるとこうであるとか、歴史にあったことを解釈していった。その後も情報は集積され、科挙の主要科目となった。
三国志正史は、魏の歴史書で、魏といっても司馬氏に王位が移ってから書かれたもので、王位の正統性を述べた書であるから、天帝思想や、易経の理屈に沿って書かれている。