戦後

イデオロギーの時代核の傘の下、冷戦構造となり、日本は軍備を持たず復興に専念した。
国民国家の概念が世界的に広がり、各地で独立戦争や、民族紛争が起こる。
共産主義は、イノベーションが起こらず、生活水準は戦後のままであった。結果、ソ連崩壊につながる。1950年頃の農業は、どんなに効率化しても8人に一人は農業に付かなければならなかったが、20世紀末には1人の農家で250人分賄える程になっていた。
パクスアメリカーナの時代
アメリカの一人勝ちで、資本主義が円熟を迎える。後で分かったことであるが、情報操作や、啓蒙活動により、民主政治が行われていた。

55年体制

 日本は戦争に負けて、GHQに占領されました。マッカーサーは日本に、アメリカの理想を植え付ける一方、強い国にならないよう策を巡らせた。「日本は極東のスイスであれ」と言っている。意識改革として、3sと言われるアメリカ文化、安全、平等。政策として、議会制民主主義、財閥解体独占禁止法、農地改革、労働組合のあたりは教科書でやったと思います。
で、結果として、①思い通りになったもの②ならなかったもの③思わぬ形になったものがあります。
①戦時中、日本人のガッツはやはり脅威であった。3Sはよく根付き、日本人の戦前のようなガッツは無くなった。②今のアメリカとも違った、古き良きアメリカを理想とし、アメリカの国益にもかなう、フィリピンぐらいの感じにしたかった。今の日本のような重工業国にするつもりは無かった。③結果として、強い中央集権でありながら、個人の権利ばかり主張する国になってしまった。

大正デモクラシーから2.26事件

自分が不勉強なだけかもしれないが、戦前は軍国主義で、戦争に突入したと教えられていたと思うが、実際は違っていた。 資本主義とは集めることである。資本が大きくなればなるほど、雪だるま式に大きくなるので、出資を募り、集めたものの一部を貰ってくるというシステムである。帝国主義では、集めてくる先を外部に求めた。
 大正デモクラシーで、民主化が進み、新聞が世論を形成し、戦争へと進んでいったというのが、現在のコンセンサスである。
 2.26事件の折、昭和天皇は1度はクーデターを阻止している。昭和の後半は自由と民主主義が礼賛されていたため、変なことになっていたのだろうと思う。

極東地域

世界には戦争の起こりやすい地域がある。フランスとドイツ、バルカン半島、中東、極東地域などだ。ロシアの人口は、ピョートル大帝がジャガイモを持ち込むと、増加しだす。日本は江戸期に人口が増加した。現在、極東地域は台頭する中国、ロシアと日本がしのぎを削っている。このまま人口が減少すると、アジアの大国としての地位を明け渡すことになる。

黒羽藩の維新

今の大田原のあたりの話。15代藩主大関増裕は横須賀藩主の息子で、婿養子として黒羽藩の藩主となる。若年寄となり、幕府の軍監(海軍、陸軍の総監)に任命される。部下には勝海舟がいた。3年ほどで病のため、国元に帰る。

領内で産出する、火薬の原料となる硫黄が高騰し、それを資金源に軍備を整える。

戊辰戦争時、幕府側につくか、新政府側につくか藩内でもめる。「那須の氷雪」によると、増裕は軍監をつとめたので、幕府を裏切れない。かといって、日本のためには新政府側につく必要がある。勝海舟の説得もあり、結果猟銃自殺する。

黒羽藩は1万8000石の小藩ながら最新式の軍備を揃え、兵力も1000人ほどあった。

白河藩との戦いでは大砲を撃ち込み、わずか700人の兵力で2500人の守る城を落とす。

しかも半日で。ちなみに会津藩は40万石の大藩で、御三家である水戸藩より石高が多かった。

大沼渉は家老の家柄で、戊辰戦争西南の役で武功を上げ、初代の仙台鎮台長となる。

周りは幕府側で、完全にアウェイであったろうと思われる。病気で失明し、初代近衛歩兵長となったが、2年後病死した。

文化

長州は文化度の高い藩で、関ケ原で負けたものの、明治維新で返り咲いた。

「虎は死んで皮を残し、人は死んで書を残す」という言葉がある。

「文化を残すか、遺伝子を残すか」

日系人は海外に400万人暮らしています。それぞれ現地になじみ、日本にやってきても完全に外国人です。一方中国人は現地になじみません。海外でも中国式の生活を続けます。かつて多くの国は日本のような国民国家でした。帝国主義の時代、国民国家は互いに戦争をしました。日本が中国からの移民を受け入れると、池袋のようなリトルチャイナに始まり、数が多くなれば、日本全体が中国のように、中国語が通じ、中国式の生活をするようになるでしょう。選挙権も認めざるを得ません。そうしたら実効支配と言えないだろうか?

トランプさんはそれに異を唱えたわけです。

覇道と王道

極東裁判の時に石原莞爾が述べた言葉が有名だが、これももともとは四書五経の思想。

覇道とは、言ってみればモンゴル帝国である。戦闘力が高く、瞬く間に大帝国を築いたが、文化力が低かったため、フビライは中国式の生活様式にすっかり染まってしまい、代を重ねるにつれ帝国から緩やかな連合となり、やがて多数の国に分かれていった。

チンギス・ハーンの子孫は1600万人いるとされ、近年まで中央アジアの指導者をつとめたものが多かった。

一方王道は力で征服するのではなく、文化の力で「ああいう国になりたい」と思わせることで、実際中国は周辺国を征服するのでなく、文化の力で治めた。すなわち、冊封を結び、朝貢を求めた。